希少価値だけに価値を見出すほど、人は少しずつ生きにくくなる。
私はそう思っている。
希少価値とは、本来そのものに備わっている価値ではない。
誰かが見つけた。
誰かが名前を付けた。
誰かが広めた。
そして、多くの人が受け入れた。
そうやって積み重なってきた価値だ。
だから私は、希少価値を否定したいわけじゃない。
否定したいのは、その価値を、自分の価値だと思い込んでしまうことだ。
本来、物には、それ自体を見たときに感じられるものがある。
服なら、着るという機能。
形。
素材。
縫製。
肌に触れたときの感触。
それらは説明されなくても存在する。
誰かに教えられなくても感じられる。
一方で、年代やブランド、希少性、市場価格。
それらは服そのものに備わっているものではない。
知識を与えられて初めて成立する価値だ。
古着の世界では、「背景があるから価値がある」という言葉をよく聞く。
でも、背景ならどんな服にもある。
誰かが作り、
誰かが選び、
誰かが着て、
時間が流れた。
違うのは、その背景が有名になったかどうかだけだ。
希少な文化も、歴史も、この世界には数え切れないほど存在している。
その中の、ごく一部だけが価値として扱われる。
それは、その背景だけが特別だからじゃない。
誰かが価値を見つけ、
誰かが名前を与え、
それを多くの人が受け入れたからだ。
逆に言えば、名前がないだけで、名前のあるものと同じだけの美しさや力を持っていたとしても、それは価値として扱われないことがある。
いや、正確には少し違う。
価値がないんじゃない。
価値として認めることを、ためらわれる。
誰かが先に「価値がある」と言ってくれるまで、世界はそれを価値として扱おうとしない。
私は、その順番が少し不思議に思える。
もし、「価値がある」と言われているものにだけ価値を感じ、
まだ価値があると言われていないものが、同じだけの力を持っていても心を動かされないのなら。
そのとき見ているのは、物ではない。
他者の価値だ。
自分の目ではなく、
他者の目で世界を見ている。
私は、その状態を盲目だと思っている。
少し強い言葉だけれど、
他に思い付かなかった。
ビンテージを好きでいることを否定したいわけじゃない。
ブランドが好きでもいい。
市場価値を追いかけてもいい。
ただ、それが他者や世論によって作られた価値であることだけは、理解していてほしい。
理解した上で、それでも好きなら、それはきっと自分の好きでもある。
これは、私の少し傲慢な願いだ。
もちろん、純粋に自分だけの価値なんて、多分ない。
人は誰かに影響されながら生きている。
美しいと思う感覚も。
かっこいいと思う感覚も。
誰かから受け取ったものが混ざっている。
だから、他者の価値を捨てろと言いたいわけじゃない。
必要なら拾えばいい。
自分が本当に大切にしているものを満たすために必要なら、
世の中の価値を纏えばいい。
遠慮なんてしなくていい。
堂々と纏えばいい。
使われるんじゃない。
使えばいい。
私が取り戻したいのは、価値そのものじゃない。
何に価値を感じるか。
何を好きになるか。
その最後の決定権だけは、自分の中に残しておきたい。
不思議なのは、そのことに気付いてからだった。
誰かが価値を付けたものではなく、
自分が素直に惹かれたものを好きになれたとき。
幸福は、驚くほど静かだった。
大きく叫ぶような幸福じゃない。
呼吸が少しだけ楽になるような幸福だった。
でも、その幸福にも少し皮肉なところがある。
その解放感は、一度その世界を信じた人だからこそ味わえる幸福なのかもしれない。
最初から希少価値という物差しを知らなければ、
この自由も知らなかったのかもしれない。
だから、過去を否定するつもりはない。
否定するのは、過去の価値観だ。
「あの頃は違った。」
そう思う日は来る。
でも、その価値観の中で感じていた幸福まで嘘になるわけじゃない。
あの頃は、本当に嬉しかった。
本当に満たされていた。
その幸福だけは、本物だった。
だから人は、価値観を更新するたびに、
幸福も更新していく。
案外、人は何度でも幸せになれる生き物なのかもしれない。
だから、ここまで考えなくてもいいのかもしれない。
世の中が価値だと言うものを好きになって、
その時々で幸せになる。
価値観が変われば、
また別のものを好きになる。
それも、その瞬間の本物の幸福なんだと思う。
私はただ、
最後の一人だけは、自分でありたい。
何を好きになるのか。
何に価値を感じるのか。
その答えを決める最後の一人だけは。
自分でありたい。
それだけは、誰にも渡したくない。