音楽は不思議な立ち位置にある。
ダサいからオシャレまでを内包しながら、文化としての地位も高い。アニメや映画、ファッションなど他の趣味と比べても、どこか特別な存在として扱われているように感じる。
なぜだろうと考えていた。
音楽には「理解しなくても楽しめるのに、掘ればどこまでも深い」という特徴がある。
流れているだけでも気持ちいい。
しかし興味を持てば、歴史やジャンル、録音や機材のスペック、時に教条的ですらあるコミュニティの文脈など、いくらでも奥へ進んでいける。
不思議なのは、それらを知ることで音楽が豊かになる一方で、時に音楽そのものから遠ざかることもある点だ。
本来は耳で聴くものだったはずなのに、気付けば知識を聴いていることがある。
誰が作ったのか。 どのレーベルから出たのか。 どんな歴史を持っているのか。 どんな人たちから支持されているのか。
もちろん、それらは面白い。むしろ音楽文化の魅力の大部分はそこにあるとも思う。
ただ、ときどき疑問になる。
本当に音を好きになっているのだろうか。
それとも、その周囲にある物語を好きになっているのだろうか。
そんなことを考えていた時、花火のことを思った。
花火を見ていても、作者の名前はほとんど気にならない。
誰が作ったのか知らないまま、 綺麗だな。 気持ちいいな。 と思う。
そこには評価も肩書きもない。
少なくとも最初にやって来るのは感覚だ。
その順番が好きだ。
もちろん、よく考えれば花火だって純粋ではない。
夏祭りの記憶や、子供の頃の思い出、過去の経験や憧れが混ざっているかもしれない。
夕焼けを見て懐かしく感じるのも、海を見て落ち着くのも、自分の中にある何かが反応しているからだろう。
人は何かを完全に純粋な状態で受け取ることなどできない。
感動の中には、いつだって過去の自分が混ざっている。
それでも花火や景色に惹かれるのは、作者がいないからではない。
作者を意識する前に、自分の感覚が立ち上がるからだと思う。
もっと言えば、作者よりも先に自分自身が現れるからだ。
音楽について語っていると、いつの間にかアーティストの話になることがある。
映画も、作品そのものより監督や時代背景の話へ向かうことがある。
服も同じだ。着た時の感覚より、ブランドや年代の話へ移っていくことがある。
もちろん、それらは作品を豊かにする大切な文脈だ。
けれど、ときどき作品そのものより大きく見えてしまうことがある。
一方で花火や景色について話している時、人は自分の話を始める。
綺麗だった。 懐かしかった。 少し寂しかった。 なぜか分からないけれど好きだった。
そこでは作者よりも受け手が主役になる。
同じ花火を見ても、同じ景色を見ても、人によって語る内容は違う。
見ているものより、見ている自分の方が前に出てくる。
もしかすると私が求めているのは、純粋な感覚ではないのかもしれない。
そんなものは最初から存在しない。
過去の経験からも、思い込みからも、人は逃れられない。
それでも、評価や文脈や知識が感覚より先に来ない状態はある。
まず心が動く。 理由は後から付いてくる。
その順番だけは守ることができる。
私が花火に惹かれるのは、その順番が残されているからなのだと思う。
知識や文脈を否定したいわけではない。
ただ、その前に感覚があってほしい。
気持ちいいな。 なんか好きだな。
そう思ったあとで理由を知りたい。
その順番だけは、失いたくない。