人は、自分で考えているつもりでいる。
けれど、「何について考えるか」は、本当に自分で選んでいるのだろうか。
ニュースも、SNSも、広告も、政治も。
私たちは、目の前に置かれた話題について考える。
でも、その話題がなぜ目の前に置かれたのかまでは、あまり考えない。
そんなことを考え始めてから、構造というものに興味を持った。
誰かが世界を支配している、という話ではない。
人は、ほんの少し視線が動くだけで、その先の考え方や行動まで変わってしまう。
戦争もそうだった。
宗教もそうだった。
国家もそうだった。
新聞。
ラジオ。
テレビ。
インターネット。
SNS。
時代が変わるたびに、人は新しい手段を手にしてきた。
けれど、変わってきたのは、手段のほうだった。
人は、それほど変わらない。
人は人を見て、人は人に影響される。
だから、構造を動かす人がいるのだと思っていた。
そして、その人たちは構造の外にいるのだと思っていた。
世界の仕組みを説明している人は、きっと、その仕組みの外側にいるのだと。
でも、違った。
影響を与えたい。
理解されたい。
認められたい。
比較してしまう。
その人たちも、人間だった。
なら、そのさらに外側はあるのだろうか。
考え続けた。
でも、あるところで思考は止まった。
どこまで掘っても、人間へ戻ってくる。
人間の根本的な構造そのものは、簡単には変わらないのかもしれない。
分析は、ここで終わる。
終わったというより、その先に分析するものが残っていなかった。
残ったのは、選ぶことだった。
見たくなければ、見なければいい。
動きたければ、動けばいい。
違う景色が見たいなら、その立場まで行けばいい。
そこから先は、誰かに答えを教えてもらうものではなく、自分で選ぶものなのだと思う。
最後に残ったのは、未来への興味だった。
人類は、環境が変わるたびに、新しい遊び方を見つけてきた。
火。
文字。
印刷。
電気。
インターネット。
そして今は、AIという環境が目の前にある。
面白いのは、AIそのものではない。
AIを手にした人間が、次に何を始めるのかだ。
何を作るのか。
何を壊すのか。
何を欲しがるのか。
何を面白いと思うのか。
その景色は、まだ誰も知らない。
だから、見てみたい。
見るだけではなく、その中に立ってみたい。
どんな立場になるのかは、まだ分からない。
作る側かもしれない。
場をつくる側かもしれない。
誰かの挑戦を支える側かもしれない。
あるいは、まだ名前の付いていない役割なのかもしれない。
それは、その時に決めればいい。
構造を知ることが目的じゃない。
構造を知ったあと、自分は何を始めるのか。
今の私が知りたいのは、その一点だけだ。
だから、自分でも試してみる。
この文章も、その実験の一つだ。