半年くらい前、落ちていたスヌーピーのマスコットを拾った。
かわいそうだと思ったから洗って、今はバッグについている。
どこにでもあるスヌーピーのマスコットだ。
中古屋に持っていけば値段はほとんどつかないだろうし、世間的に見れば特別珍しいものでもない。
けれど、自分にとっては違う。
そのマスコットには、落ちていたという事実があり、拾ったという出来事があり、洗ったという時間がある。
その物語が、そのマスコットを特別なものにしている。
考えてみると、人に対しても同じなのかもしれない。
私たちはよく、人の価値について話す。
かっこいいとか、かわいいとか、才能があるとか、有名だとか。
けれど本当に誰かを特別に感じる理由は、そんな共通の評価だけではない気がする。
たまたま出会ったこと。
同じ景色を見たこと。
自分だけが知っている表情があったこと。
そういう他人には説明しづらい、小さな物語の積み重ねが、その人を特別な存在にしていく。
人や物に絶対的な価値があるというより、価値は関係の中で生まれるものなのかもしれない。
それでも私たちは、価値を探すときに他人の目を借りる。
有名な人を魅力的だと思い、多くの人が良いと言うものを良いと感じる。
それは不自然なことではない。
けれど、いつの間にか自分の感じ方よりも先に、世間の感じ方を見てしまうことがある。
本当はもっと、自分だけの価値があってもいいはずだ。
誰にも理解されなくても気になるもの。
誰も見向きもしないのに好きなもの。
うまく説明できないけれど、大切だと思えるもの。
けれど私たちは、その感覚さえ誰かに確かめてもらいたくなる。
本当に価値があるのか。
自分の感じ方は間違っていないのか。
そんなふうに。
でも、落ちていたスヌーピーのマスコットを見ていると、価値とは案外もっと勝手なものなのではないかと思う。
誰かが決めるものではなく、自分が感じるもの。
世間が見つけた価値ではなく、自分だけが見つけた価値。
そんなものを大切にできたらいい。
それは少し心細いかもしれない。