昔から、理由の分からない嫌悪がある。
「嫌い」とも少し違う。
もっと説明のつかない引っ掛かりだった。
だから、その感情を考えたことがなかった。
考えようとすると、その感情が先に思考を止める。
嫌悪しているものを、わざわざ見に行こうとは思わない。
ずっとそうだった。
引っ掛かるものには、なんとなく共通点がある。
誰かを下に置いた笑い。
いじめの延長にあるような空気。
性的なものを笑いとして消費すること。
でも、不思議なのは、それら全部が嫌なわけではない。
同じような場面でも、何も感じないことがある。
逆に、少し条件が違うだけで急に受け入れられなくなることもある。
その違いは何なんだろう。
線は見えていた。
でも、それを描いた手は見たことがなかった。
これを考えた日も、最初は何も変わらなかった。
ただ眠かった。
頭がぼんやりしていた。
普段なら嫌悪が先に来る。
「嫌だ。」
それで終わる。
その日は終わらなかった。
「なんで嫌なんだろう。」
その問いだけが、嫌悪より少し早く動いた。
最初に浮かんだのは家族だった。
家族が人前で恥をかく。
みっともない姿を見せる。
その姿そのものは、案外受け入れられる気がした。
でも、その姿を見た誰かが家族を見下すことは受け入れられない。
そこで止まった。
自分は何を嫌がっているんだろう。
出来事だろうか。
その後に起こることだろうか。
最初は、「他人の評価」が嫌なんだと思った。
でも、それも少し違う気がした。
他人がどう思ったかなんて、本当は分からない。
誰も何も言っていない。
それなのに、自分の中ではもう決まっていた。
「かわいそうだと思われる。」
「笑われる。」
「下に見られる。」
そう思われるだろう、と。
でも、それは本当に見たことがあったんだろうか。
他人の頭の中は見えない。
見えない場所ほど、自分は勝手によく見えていた。
知っていたんじゃない。
知っていることにしていた。
その違いに気づいた瞬間だった。
嫌悪が消えたわけじゃない。
少しだけ、その近くにいられるようになった。
もし今まで嫌悪していたものの中に、現実ではなく、自分が書き足した続きを含めていたとしたら。
自分は、何を見ていたんだろう。
出来事だったのか。
予測だったのか。
それとも、その二つを区別したことすらなかったのか。
ここまで来ると、嫌悪のことは少しどうでもよくなった。
気になり始めたのは、自分の見方だった。
この見方は、いつできたんだろう。
学校だったのか。
テレビだったのか。
家族だったのか。
思春期だったのか。
たぶん、一つじゃない。
何かを教えられた記憶はない。
思い出は残っていない。
残っているのは、思い出が通ったあとの形だけだった。
その形が、気づけば「ここから先は嫌だ」という一本の線になっていたのかもしれない。
その線を、自分は最初からそこにあるものだと思っていた。
人は何かを基準に生きている。
その基準があるから、一緒に暮らせる。
だから固定観念そのものを否定したいわけではない。
ただ、その基準を「世界そのもの」だと思っていた。
そのことには、気づいていなかった。
そのあと、人のことも少し変わって見えた。
怒っている人。
嫌悪している人。
心地よさを感じている人。
その感情よりも先に、その人の中に一本の線があるのかもしれない。
本人も見たことのない線が。
もちろん、自分にもある。
今見えている線だって、本当はまだ一枚目なのかもしれない。
最近は、自分の感情を否定することも、信じることもしなくなった。
ただ、少し立ち止まる。
これは本当に、今目の前で起きたことなんだろうか。
それとも、自分が続きを書いてしまったんだろうか。
答えはまだない。
でも、あの夜から、自分が気になっているのは嫌悪ではない。
目の前を見ていたつもりだった。
振り返ると、見ていたのは少し先だったのかもしれない。
そのことばかり考えている。