2026.10.01

NOTES

地蔵はメガネに自分を隠す

久しぶりの記事です。

記事の思いつきは、本当にふとした時で、何かをみたり、何かを読んだり、ピカッとしたものを追いかけて、深追いしすぎていると、いつの間にか頭の中に文ができあがっていて、その拙いのを、整えて他者に伝わるようにならすのがいつもの流れで。

ここ最近はなかなかその明るい光と出会うことがなく、追いかけるある種の止められない暴走も起こることなくいたので、なかなか書くものもなかった。

そんな中、久々にピカッと光ってくれたのは、お店の近くを久々に散歩していた時に見かけた石地蔵たちだった。

10人くらいいただろうか。

そのうちのひとりだけ、メガネをかけていた。

もちろん、本当にかけているわけではない。

誰かが黒いペンで、目の上に丸をふたつ描いていた。

それが妙に似合っていた。

なぜメガネなんだろう。

ヒゲでもよかったし、帽子でもよかった。 なんなら、何もしなくてもよかったはずだ。

それなのに、ひとりだけメガネ。

同じような顔をして、同じように並んでいる石地蔵の中で、ひとりだけ、ちょっとだけ違う。

こういうものを見ると、つい理由を探したくなる。

まあ、ある種のこじつけなんですが。

基本的に、ほとんど自分の中の世に対する否定的な感情から始まっているんですが、なんだかんだ、いろんな気持ちが徒競走しながらできたのが、今回です。

少数派について。

人と同じところにいることから、少し離れてみる。

それ自体は、そんなに悪いことではない。

多くの人が欲しいと思うものから離れてみる。 みんなが選ぶものを、あえて選ばない。

そうすることで、そこに自分だけのものが見えてくることもある。

人と違うものを選ぶ。

みんなが持っていないものを持つ。

みんなが行かないところへ行く。

そうすると、ほんの少しだけ、自分が特別になったような気がする。

その「ほんの少し」が、案外気持ちよかったりもする。

そして、その違いを誰かが見つけてくれたときには、そこに名前がつく。

個性、とか。

かっこいい、とか。

そういうものは、たぶん悪いものではない。

むしろ、かっこいいを求めていけば、多くの人が行き着く先で、少数派を選ぶこともある。

大衆的であること。 ありふれていること。 みんなが欲しがること。

そういうものから少しずつ離れていく。

するといつの間にか、離れていることそのものが、かっこよさの一部になってくる。

みんなが持っているものを持っていない。

みんなが行くところへ行かない。

みんなが好きだと言うものを、好きだと言わない。

それだけで、なんとなく自分の輪郭が濃くなったような気がする。

でも、よく考えてみると、少しおかしい。

人と違うことで自分の位置を確かめるなら、その「人と違う」を確かめるために、ずっと人を見ていなければならない。

大衆ではないことで自分を確かめるなら、大衆がどこにいるのかを、ずっと気にしていなければならない。

あれとは違う自分。

あれを選ばない自分。

あれを欲しがらない自分。

そうやって自分を作っているつもりが、実はずっと、あれを見ている。

なんて書いている自分も、結局はそうやって自分を作ってきた側なので、あまり人のことは言えない。

大衆から離れたつもりが、大衆をものさしにしている。

なんだか、ずいぶん遠くまで来たと思ったら、最初の場所をずっと見ていたような話だ。

そういえば、あのお地蔵さんもそうだった。

10人くらい並んでいる中で、ひとりだけメガネ。

何もないところに、誰かがふたつの丸を描いただけなのに、それだけで「違うもの」になる。

人間も、案外こういう簡単なことをしているのかもしれない。

何かを足して、何かを選んで、何かを選ばないことで、自分を少しだけ人と違うところへ置いてみる。

そのほうが、自分であるような気がするから。

でも、そうしているうちは、たぶんずっと誰かを見ている。

何も足さないままでもいいのかもしれない。

同じでもいい。

同じものを欲しがってもいい。

そのうえで、自分が欲しいものを選べばいい。

それが人と違っていたなら、それはそれでいい。

個性なんて、たぶん後からついてくる。

そういえば、あのお地蔵さんのメガネ、結構うまく描けていた。

そして、お地蔵さんのことは片隅にもない。